よかったり、悪かったり。悪かったり、よかったり。

今日は久々に「新羅に集う人々の会」に参加です。
わたしはこの「新羅」という焼肉屋さんの家族とは20年以上のつきあいになります。てか、焼肉屋さんする前からのつきあいやし(笑)。ただ、この集まり、なんしか日程があわず、なかなか参加できませんでした。で、今回は「幸か不幸かエントリー忘れ」って事故があって、参加ができたという。
この集まり、第一部は「学習会」で、第二部が「宴会」です。もちろん、非公式の第三部もありますが、それはおいといて。
で、今回の第一部は「ヘイトスピーチと法規制」というテーマでのシンポジウムです。具体的には朝鮮学校襲撃事件の弁護団とI成さんが話をしてくれました。
ヘイトを「法規制がかけられない部分」「民事訴訟の部分」「刑事訴訟の部分」とわけ、これらを別々の事象として捉えるのではなく、「進行する事象」として捉える必要がある。あるいはヘイトを受けた人間の「沈黙効果」って話。かなり自分の中で整理ができたし、少し「わかる」こともありました。で、わたしも微力ながらカウンターやってる人間として、法規制の大切さとともに、ひとりの市民として日常できることをすること。それがヘイトを抑止することにつながり、法規制を後押しするものになるんじゃないかみたいなことを発言して、ちゃっかり仲パレのチラシもまいたり。

で、お楽しみの第二部。
みんなで鍋をつつきながら楽しく飲んでいたのですが…。
ある人が所要のために帰らなくちゃならなくなった時、その人の先輩とおぼしき人が参加者に向かって
「彼、結婚相手募集中です」
とアピールされまして。で、みなさんなごやかに笑われるわけでして。
もうね。「なぜこの場でこんな発言が」と。「ここまできてこれかよ」と。まさに沈黙効果ですね。黙り込むしかなくなります。まぁ、I成さんにはグチったけど、もうあとは「居場所のなさ」で荒れるばかりです。

で、第三部(笑)。
荒れてるなら行かなきゃいいのに、なんとなく行っちゃいました。行ったのは「新右衛門」という沖縄料理のお店。店内には古ーい知り合いがおられたり、デモの常連の「仲間」がおられたり。
ここではカラオケですね。I成さん、うまいわ…。まぁ、沖縄料理のお店ですから、沖縄系の歌がバンバンかかるわけですが…。
せっかくなんで自分も歌おうかと思ったんですけど、ないんですよね。トランス同士で大合唱できる歌。「友だちの歌?」ちゃいます。「セレストブルー?」ちゃいます。ないんです。
「そっかぁ、ないんだ…」
なんともいえない寂しさが募ってきたので、加藤登紀子とか玉置浩二とか歌っておきました。
と、別のお客さんから「歌声気に入った。もう一曲歌って」とかリクエストが入ったり^^;;。
なんか、わけわからんままに、夜がふけていって、気がつくと終電がないという(笑)。

調査結果が出た

今年1月に通知が出された調査の結果が出たらしいです。便利な世の中なもんで、いちいち新聞読まなくても記事は読めるし、さっそくあちこちでさまざまな論評がされているので、いまさら書くこともないなぁと(笑)。
なので、論評ではなく感想かな…。
まずは「ありがたい」ですね。
一定の数字が出ることは、なんだかんだいってもありがたいです。
で、なにが「なんだかんだいっても」かっていうと…。まぁ、なんだかんだですわ。
とりあえず、把握した限りで全国で606人。てことは、うちの交流会にはその数パーセントが来てる。もっとも、これがまた数値としては出ないんですよね(笑)。だって、来てることを学校が把握してなかったら、それはデータとしてはあがらない。
ま、そんな限界を抱えた調査ではあるけど、やはりありがたいです。

あー
でも、ここからいろんな動きが出てくるんだろうなぁ。うちみたいな手弁当のちっちゃなグループなんて、ブルドーザーみたいな力で押しつぶされるんだろうなぁ。あるいは宣伝上手な人たちが「他に類のない活動」とかやるんだろうなぁ。
でもまぁ、来た人間にはわかります。情けない飲んだくれがやる情けないグループにも、ちょっとはいいことがあるってこと。そして「ちょっとはいいこと」くらいでちょうどいいってこと。

同和教育の継承

先週、ある子どものことについて、とある相談を受けました。で、そこから動こうかと思ったのですが、少し大人の判断をしちゃいました。で、動きがストップして、でもまぁ、近日中になんてことになったわけですが…。その後、大人の事情でそのあたりのことは無期延期になったみたいです。まぁ、実質「なし」ってことですね。
で、この話を聞いた瞬間、わたしの中の瞬間湯沸器が沸騰しました。
まぁ、詳細はどうでもいいことなんです。
とても簡単に言うと、優先順位の問題なんです。
わたしは「困ってる子どもがいた時、その子をなんとかしたいと思うのは教員の本能である」と思っています。だからこそ、子どもを中心においてものを考える。少なくとも、わたしは同和教育の先輩たちからそう教わってきました。というよりも、一緒に無茶をする中で、そんな「動き」を身につけてきました。少なくとも、そこに「大人の事情」なんてものはどーでもよかった。
だ、今回「子どもの事情」よりも「大人の事情」を優先した。わたしにはそう感じられました。そう感じた瞬間、わたしの中の瞬間湯沸器が沸騰したわけです。
あとはもう、ほえまくりです(笑)。

まぁ、わたし、子どもなんです。大人の事情なんて、どーでもいいんです。腹がたったら腹がたつ。うれしかったらうれしい。悲しかったら悲しい。しんどかったらしんどい。それだけです。
でも、そういう自分を正直に出すことを、わたしは同和教育の先輩たちから学んできました。

今の「wiseな若い教員」たちに、こんな子どもっぽいことを継承できるのかなぁ(;_;)。

自分探しは「まんまる」で。

今日は「まんまるの会」です。ちなみに、会場の「まんまる」が移転した関係で、使い勝手とかいろいろ変わっている可能性があります。でも、とにかく行かなきゃわかりません。
「まんまる」に着くと…。お店がえらい繁盛しています。よかったのはよかったんですが、「会」がはじめられんな^^;;。ま、ええか。
てことで、2階の会議室みたいなところで今回の第一部をやることになりました。
今回のお題は…。「雨にまつわる思い出」にしようかと思ったのですが、自分でもネタが思いつかないので断念。「まんまる」の移転もあったことで「引っ越しにまつわる思い出」ってことにしました。
みなさん、けっこう引っ越しをしておられるんですね。特にトランスにとっての引っ越しは、いろんな意味を含むのかもしれないと思いました。
例えば、引っ越しを機会に、周囲の環境を変えて、少しずつ性別を移行していく。あるいは、過去の関係を断ち切るために引っ越しをして、トランスの一歩を踏み出す。みんな、最初はお金がないので、はっきり言って苦労話です。「家賃は二万円で」「トイレ・炊事場・お風呂は共同で」。みんな、そんな状態でどうやってトランスするねんというような環境で、それでも少しずつトランスをしていくんですよね。
「引っ越しのことを思い出したら、トランスはじめた時のことを思い出したよ」
なーんて話も出てくる。なるほどなぁ。ライフヒストリーを語ることは、自分史を再編成することなんだなぁ。逆に言うならそうやって自分史の再編成ができるところまでライフヒストリーを語れる。そんな人たちが集まってるんだなぁ。

で、第2部突入。
ここで、最近受診された方からの悩み相談(笑)からスタートした「診察室あるある」です。
「診察時間が短い!」
そんなこと思ったこともなかったので
「何分くらい?」
って聞くと
「5分」「いや、3分」
な、なんで…?あたしゃ、短くても15分は遊んでますよ。下手すりゃ1時間くらい…。あ、診察はしてないな(笑)。
「先生、なんにも言ってくれないんです」
「あー、あの先生、厳しいからなぁ」
みんな深くうなづいています。たしかに厳しいです。
基本的に、トランスなんて、自分がやりたいことがあってそれを実現するために扉を開けていくものだと思っています。で、扉を開けるのは他でもない自分以外にはいない。なので、「開けたい」という意志を自分が持ってない限り、誰も何もできない。
「なんか、話題を持って行ったら?」
「話題、特にないんです」
うーん…。慎重であるなら、それはそれでいいんですけど、「やりたいことがない」なら、そもそもジェンダークリニックに行く必要はないと思うんですよね。「ジェンダークリニックは自分探しの場所ではない」って話もあるわけで…。
でもま、そういう話をしながらも、「集まり方は緩く」がまんまるの会です。まぁ、自分探しは「まんまるの会」で(笑)。

正しさの主張

「正しい」と考えた瞬間、思考停止がはじまる。
思考停止した「正しさ」は、「正しさ」を主張する人の判断基準となる。すると、「自分の正しさ」に合致しない考えは「間違い」になる。「間違い」を糾すことが「相手のため」と勘違いがはじまる。それを聞き入れない人は「どうしようもないヤツ」となる。やがて「どうしようもないヤツ」はどんどん増えていく。それが、「自分の正しさ」をどんどん正当なものへと押し上げていく。自分への批判が増えてくても、「世の中は間違ったどうしようもないヤツだらけ」ってなる。
最後に残るのは「正しい自分」だけ。
幸せな世界。

あかん。
ぽえむやな^^;;。

こんなもん、見なきゃならんのか(;_;)

夕方、それなりに疲れて家に帰るわけです*1。で、お風呂に入って、ビール呑みながら晩ごはん食べて、家族でしゃべる。で、食べ終わったらテレビを見るわけです。
時は21時。NHKなんぞを見るとニュースなわけです。あのソーリが得意げにしゃべってる。うしろに援軍の人を小馬鹿にした笑顔。
そりゃね。ニュースは見たいです。それも「どこそこで事故があった」とかじゃなくて、今の日本が、今の世界がどこへ向かおうとしているのかという情報の「ある部分」を知るためにね。
でもね。報道のしかたも報道の中身も、あまりにも醜悪です。
「総理は演説をして、自分に酔ってますね」
とは、まぁその通りだなと。
別に政治屋の演説や自己陶酔の姿を見たいわけじゃない。

*1:「夕方か?」とか「帰ってるのか?」とかいうツッコミはなし(笑)。

コミュニケーション力

とあるところで「コミュニケーション力」についての興味深い話が書いてありました。ちなみに書いたのは20歳くらいのIさん。けっこう興味深い話を出してくる人です。
別に「若い視点で」みたいなことではないんですよね。てか、そーゆーのは大嫌いなわたしです。じゃ、なにがいいかというと、このIさん、自分が考えて迷って考えて迷ってってことをストレートに出してくれるんです。で、その迷って考えている過程を追うのがおもしろい。そのおもしろさの中で、自分も迷い考えることができる。
で、コミュニケーション力にまつわる話を読んでいて、ふと考えました。
「コミュニケーション」って聞いた時、ついオフェンシブなコミュニケーション=「話す」方について考えてしまうんですけど、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」って必要なんじゃないかなって思ったんですね。
なぜこんなことを考えたかというと。
「話す」側って、まぁすごく大雑把に言うなら「その場における決定権」を持っているわけです。問題は、その「権」は、はたして「権利」なのか「権力」なのかってことです。
例えば…。
とてもその場をうまく盛り上げる人(Aさん)がいるとします。みんな楽しそうに笑いながら話をしている。たぶん、その盛り上げることができる人はコミュニケーション力の高い人なのかな。まぁ、そう仮定しましょう。でもねぇ。誰か(Bさん)が話題を出した時、その場においてその話題を採択するかどうかはAさんだったりするんですよね。で、「採択しない」となると流したり、あるいはその話題を笑うことでその場を盛り上げる。
まぁ…。明石家さんまみたいな?
で、わたしはこういうのはコミュニケーション力とはあまり思えないんですよね。というか、権力の行使であるとすら思ってしまう。
じゃあ、どういうあたりの力がコミュニケーションのために必要かと考えた時、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」。もう一歩すすめるなら「聴きあう」ことかなぁと。これはどういう感じかというと、自分が権力を持ちそうになった時、その場の中心からずれて、権力から逃げるという感じ。あるいは「発話権」をどうスムーズに移行させるかみたいなところに神経を注ぐ感じ。
たぶんこれが、「とあるところ」の「続く」につながるんじゃないかなって思ったりするわけです。

んー。なんだか、とりとめがないというか、まとまりがないというか、説得力がないというか…。
ま、簡単に言うと、コミュニケーション力の高いおじさまは苦手ってことなんですけどね(笑)。

わやでんねん

なんか、やりたいことや、発信したいことが、きっとたくさんあるし、それをしなきゃならない、まさにその「時」なはずなのに、やらなきゃならないことがあまりにもリソースをつかうもんだから、そちらにすべてとられてる気がします。
もう少しリソースの割り振りをうまくしたいけど、そんなことやったら、たぶんアカンのやろなぁ…。

先達から学ぶ

で、今日、昼食を約束している「先達」のおうちへ。
なんか、Macだらけの部屋で、世界と日本のトランス業界の話とか、それぞれの生き方とか、考えとかを交流。とても刺激的な時間を過ごさせていただいたのですが、5時をまわったあたりでそろそろパワー切れです。
あかん。もう帰ろう。
家に帰ったら、お風呂入って、倒れてしまいました。ま、そりゃそうだわな^^;;。