全同教大会2日目

朝起きると7時過ぎ。完全にヤバイです。二日酔いがないのが不幸中のさいわいってやつですか。
とにかく朝ごはんを食べて、スタートです。

今日の午前もレポート二本。
一本目は「多部制高校のとりくみ」です。
最近の流れとして、定時制高校をつぶして大きな多部制高校をつくって、そこにさまざまな困難を抱えた生徒を入れるというふうになってきています。
で、この高校の話を聞いても、ものすごい困難を抱えた生徒が集まっています。で、教員は授業をしながら、そうした生徒のケアをしています。で、通信制という仕組みや、困難を抱えた生徒を集めているという前提のおかげで、そうした生徒がなんとか生きていけるわけです。
で、それはそれでとてもいいことなんですが、やはりここでも一抹の違和感があるんですね。それは「拠点校方式」のメリットデメリットのことです。生徒たちを集めるということは、その裏返しとして、そうした生徒たちを普通高校から排除するということでもあります。その排除をどう考えるかということです。まぁ、わたしの現実主義的な側面からすると「ま、しゃーないやん」となるはずなんですけど、やはりここは何とも言えない違和感が残るんですね。
で、二本目は「綴り方のとりくみ」です。いや、ほんとにていねいです。小学生で、なかなか自分の生活を振り返り、内面に踏み込んだ作文なんか書けません。でも、粘り強く書かせていくとりくみをされているんですね。でも、これ、一人ではできないんです。友だちの作文に触れ、それに引き出されるようにして言葉が出てくるんですね。もちろん、書けない子もいます。でもそのことを否定せずに待つ。その、とても長いとりくみが、子どもたちの生活を変えていくってことが伝わってきました。
そうそう。昨日の「自分史」の時にレポーターが言っておられた
「何を書かせるかがこちらにわかっていないと自分史のとりくみはできない。そのために、家庭訪問を繰り返し、子どもたちと話し込む」
が、ここでも出てきました。

「二人っきりで一時間沈黙の時間を過ごすと、そのうち無性に笑いが出てくるんですよ」
ってフレーズはステキだったなぁ…。
なんしか、心が柔なくなるレポートでした。

午後からもレポート二本。
でも、このあたりでとうとう集中力が持たなくなってきました。
「なんか、薄いなぁ…」「ありゃ、校長が出てきた^^;;」
って感じです^^;;。

最後に総括討論。
いろんな人が自分の実践を提案されます。うーん、どうしよう。しゃべるか黙るか…。
やっぱ、しゃべろう。
他の人とは違う観点から^^;;。

すんません。前半ボヤキで、後半は少し元気が出るかもしれない話をします。
つながりは大切なんですけどね。高校なんか全校体制なんてほとんど無理なんです。しかも、高校間も課題が個別化して分断されている。
それから、わたしは仲間づくりが苦手なんです。そんな人間もいる。
たしかに、100人の一歩は大切だけど、ひとりの100歩しかできない時は、ひとりでもできるとりくみをつくりださないとダメなんです。
で、ひとりでできるとりくみ。それは、交流会です。特に卒業生の会。
わたしがやっている卒業生の会の約束は5つ。

  1. プログラムはありません
  2. 夜遅くに騒ぐのはやめましょう
  3. 後かたづけは自分たちでしましょう
  4. 未成年はお酒はタバコは控えましょう
  5. 友だち同士でくっつくのはやめましょう

プログラムも後かたづけもないから、スタッフはいりません。これなら「やるぞ!」って手を上げるだけでいいから、ひとりでもできます。
「地域とつなぐ」って話が出てきましたが、例えば「なにわのアメラジアン」とか「ボリポン人」とかは、地域とつながれないし、親とも異質な存在。ヘタしたら日本中探しても「同じ」存在はどこにもいないかもしれない。そんな子らの受け皿として交流会がある。
卒業して間なしの子ら、しんどいことがあったらそこの場所に行くんじゃなくて、卒業したところに行きます。そんな子らをつなぐことで、地域や学校を越えてつながることができる。
もうひとつはカウンターです。
わたしにはとても大切な在日の友だちがいます。ヘイトスピーチ聞くたびに「いやいや、飲み友だち減るのいやや!」って思うんです。許せない。だからそれを表明するために街頭に行く。
それから。
皆さんからは見えないだろうけど、いまタトゥーシールを貼っています。これを貼って授業をする。そしたら「それ、なに?」って子どもが聞いてきます。それに答える。そんなことを繰り返す。
そしたら、昨日「でも、先生がやっていることはカッコイイと思う」って言ってくれたんです。
すごく元気をもらいました。
ひとりでやっても、そうやって子どもとつながれるんです。

ま、だいたいこんな感じですね^^;;。
横で聞いている人が笑顔だったのが印象的でした。ひとりでもできること。明日からできること。誰でもできること。それもとても大切なんだと思うのです。
まぁ、でも、しゃべくりはうまいですね^^;;。

てことで、今年の全同教大会もエンディング。
それにしても、身体の芯まで疲れてました。家に帰ってお風呂入ってビール呑もう。
そして明日。
日常が待っている。見栄を張ったから、それに見合う自分でないと、来年の香川でみんなにあわせる顔がない^^;;。

全同教大会2日目” に4件のコメントがあります

  1. 『引き出されるようにして言葉が出』

     引き出された言葉って、自分の言葉なんでしょうか。意識してか無意識でか、教員の期待に応えようと児童がしてしまっているだけになる可能性も感じます。少なくとも私は昔、教員の期待に応えようとしてしまう子どもでした。

     で、一度引き出されてしまうと、その借り物の言葉で自分が規定されてしまい、それに縛られてしまう虞もあるような。。。

  2. 言葉は大なり小なり「中身」とずれるものかなと思います。
    で、「引き出されるようにして」というのは、どちらかというと、言葉にするきっかけをもらうという感じでしょうか。

    「生活綴り方」については、こんなのもあります。
    http://www.tudurikata-forum21.jp/

  3. 『言葉は大なり小なり「中身」とずれるもの』

     それはそうですが、教員さんがやるのは、特に小学校でやるのは、教員さんの影響力が強すぎるような。。。

    『きっかけをもらうという感じ』

     ごくごく間接的な形でない限り、誘導に近いように感じます。ある程度成長してからでも、目の前に何か「言葉」があると、つい自分をそれに当てはめて表現したくなったりしますし。
      ※ 流行ってる言葉なら、なおのことですよね。例えば
       GIDとか。これが当事者の急増の一因?(-_-;)
    話を戻すと。成長してからでもそう、なので児童にやる場合は、ごくごく慎重にやらないと「誘導」「型嵌め」になりかねないような。

    『こんなのもあります』

     少し拝見しましたが。うーーん。「子どもたちにとっては本来的に」と、「子どもは」「本来○○な存在」と考えている時点で、無意識に子どもを誘導・型嵌めしている人たちの集りに感じてしまいます。例として上がっている作文を読んでも、新聞に載ってる子どもの投書を見た時と同じような違和感が。。。

  4. 個々の生活が異なる限り、「GIDに見られるような感染」はないと思います。
    あと、「貧乏比べにならないか?」「語るネタがない子がムリヤリかたりをつくるのでは」みたいなことは、わたしは提起をしているし、そうした危険性も考えつつのことみたいですよ。

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