中立なぁ…。

今日は「在日外国人教育セミナー」。テーマは「京都・滋賀の朝鮮学校の現在」。とてもタイムリーなので、いろんな人が来られるかなぁと。でも、考えてみたら、たぶん「いろんな人」も限られた人数の中で取捨選択しながらあちこちに行っておられるので、たぶん吹けば飛ぶような「わたしたち」の集まりには来られないでしょうね。
てことで、ゆるーい警戒感を持ちながらセミナー開始。
ちなみに、「集会をやる」ってことは、わたしにとってどういうことかというと…。

  1. 会場をどこにするか考える
  2. 必要に応じて根まわししたり、申し込みに行ったりする
  3. 名簿用紙をつくる
  4. 最初に行って会場をあける
  5. 必要に応じて案内用の張り紙をしたり、視聴覚機器のセットをする
  6. はじまったら電気のつけ消しとか視聴覚機器の操作をする
  7. 終ったらゴミのチェックをして片づけして部屋を閉めてカギの返却

なんですよね。これ、セミナーなのか交流会なのか玖伊屋なのかわかりませんよね。つまり、中味じゃないってことです。どんな集まりであっても、やることは同じです。でも、そういう感覚を持たない人が多いんですよね…。ま、いいや。

セミナーの中身は…。
支援者の方の話は、いろんな「情報」がつまっていて勉強になりました。あと、朝鮮高級学校の先生の話がおもしろかったですね。スライドを使いながらの話でしたが、生徒たちがとてもいい顔をしています。てことは、楽しいんでしょうね。それから、一生懸命なんでしょうね。とても大切なことだと思います。京都の公立高校であんな顔ができる学校がどれだけあるかなと思うと…。まぁ心許ないですね。

教育の中立性ってなんだろうと、あらためて思います。カリキュラムによって、あるいは思想信条によって補助金を出すか出さないか決めるって、極めて中立的でないなぁと、ふと感じました。つまり、「中立」をどのレベルで考えるかってことです。「中立」に対して一定の審査をするということは、「審査基準」があるわけで、その「審査基準がある」ということそのものが中立ではないということだよなぁということなんです。
いや、「なんでも通しはあかんやろ」という意見はあるとは思うのですが、そういう話ではない。「中立ではない」ということに意識的である必要があるということです。「バイアスをかけて排除してる」ということを意識することが必要であるということです。自分を「正しい」と思わないということです。
単にそれだけのこと。
そんなことを、あの子どもたちの顔を見ながら、ふと感じた。まぁ、それが感じられたという意味で、参加してよかったかな。

中立なぁ…。” に8件のコメントがあります

  1. わかります。アウェイ感満載、でもそこに芽が出るかもしれない。そう思ったらまんざらわるくない人生。

  2. > わたしはわたしの課題を考える時、語る時、「排他的」にはなりたくない。

    @ituki0309という人のアイコンに
    「BOYCOTT APARTHEID ISREAL」と書かれていて
    マーゲンダビドとタリートに×がついています。

    あれはふざけてやっているのですか?

  3. BOYCOTTは文字通り「排斥」です。
    (商品の場合だったら不買の意味もあるけどISREALは商品ではない)

    あとISREALがAPARTHEIDだというのだとしたら
    それは明らかに事実に反しています。

  4. 日本には 行動する保守と呼ばれる人たちがいて
    太極と八卦に×をつけているけれど、

    そんな彼らだって「排他的にはなりたくない」とは
    決して口にしないのではと思いました。

  5. > haberah_shelkhaさん
    わたしは「イスラエル」という国の「存在」そのものを批判するつもりはないし、ましてや「イスラエルの人々」を批判する気もまったくありません。ただ、イスラエルという「国家」が現在している「特定の行動」に対する拒否の気持ちを持っているということです。
    あと、「排他的」というのは「自分の課題だけを考える」→「他の課題に無頓着」ということをあらわしているつもりです。
    「排他→自分(の仲間)以外の人や思想を絶対に受け入れないこと(新明解)」

    > こちゅかるさん
    あー、そこに目が出る…。なるほどなぁ。こちゅかるさんもアウェイ感満載で生きてはるしなぁ。

  6. 政体としてのイスラエルに対する批判は
    イスラエル外務省大使館とネタニヤフにお願いいたします。
    (それぞれツイターアカウントがあります)

    マーゲンダビドもタリートも1948年以前から存在するもので、
    政体を批判したいがために
    マーゲンダビドとタリートに×をつけるのはお門違いというものです。

    ちなみにマーゲンダビドはシナゴーグの説教壇に掛けられていて、
    そしてタリートは祈るときに身につけるとても神聖なものです。

  7. > haberah_shelkhaさん
    言わんとされることはわかりました。理解できます。
    ツイッタのアイコンを変更しました。

こちゅかる へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です