で、呑み

といっても、別に職場の呑み会ではありません。まぁ、「気心のあった仲間・その2」の呑み会ってことですか。
愚にもつかないあんな話や、ちょっとまじめなこんな話、愚痴っぽいそんな話がいろいろ出てきました。
さぁ、これで準備は整った。あとは出撃ですな(なんのこっちゃ?)。

で、特殊業務

特殊業務における放送担当って、昨日も書いたように、用心棒みたいな仕事ですね。なにもない時は、単なる食客です。まぁ仕事といえば、食う・寝る・遊ぶです*1。そのかわり、いったん「こと」があれば、えらいことになります。下手すれば、血まみれです*2。まぁ、そうならないために、事前にいろいろ準備をするわけですけどね。さすがに「某CD」を流す時は心拍数が上がります(笑)*3
そうそう。もうひとつの仕事は、「アナウンサーが機嫌よく仕事ができる雰囲気をつくる」ってことですか。アナウンサーの教員もきちんと準備をされるわけですが、やっぱりライブ放送です。細かなミスがあったりすると、「アッ!」とか思われるわけです。そういう時に「ドンマイ!」というオーラを笑顔とともに送る。これ、大切な仕事かな。
そんなこんなで、今日もけっこう楽しく仕事ができました。さぁ、あとは学年末試験だ!

*1:なつかしい…

*2:これ、マジです。対外的にはもちろん校長が責任者ですが、現場においてはわたしが責任者で、その責任を問われるわけです

*3:みなさんもピリピリしてはります

チッやられたぜ…

あしたは年に1回の特殊業務の日です*1
で、今日はその準備。もちろんわたしは放送担当。アナウンスの担当の方は他におられるので、まぁ言ってみれば用心棒みたいな役割です。
それでも前日はボリュームチェックをしたり、不要な場所のスピーカーを切ったりと、いろいろしなくちゃなりません。
で、今日もいつもの通りそんなことをしていたら、とある場所の隠しスイッチが起動しません。
「へ?」
そうか…。
この間業者が放送チェックをしていたのが原因のようです。たしかに、いろいろな設置基準の中で「隠し動作」があるのはまずいみたいです。それはわかるのはわかるんだけど…。いらんことをしよるなぁ。
まぁいいけど。隠しスイッチ復活させたし(笑)。

*1:正確にはうちの学校の場合3回あるんですけどね

伝えたいことは?

今日は下の子どもの小学校最後の授業参観。行かない手はないです。
てことで、行ってきました。
しかも、授業内容は「エイズ学習」。もう、wktkですよ(笑)。
まぁ流れとしては、
「基礎知識」→「ジョナサンくんの話」
という、それだけの展開です。
でも、45分の中で何をどう伝えるか、ずいぶんと悩まれたんでしょうねぇ。いや、わたしも15年ぐらい前に、はじめてエイズ学習にとりくんだ時、同じ流れでしたから。
でもねぇ…。子どもたちの感想を聞いていて、「なんだかなぁ」という気になりました。担任さんには悪いけど…。
子どもたちの感想は
エイズは怖い。ジョナサンえらい」
なんですね。はたしてこんな感想を求めていたのかな?きっと違うはずなんですよね。たぶん…。
知識っていったいなんのために学ぶんだろうと思いました。
当事者にとっては、まさに自分が何であるかを知り、生き延びるために必要不可欠なものだと思います。
では、非当事者にとっては?きっと、「病気にかからない」ためじゃなくて「ともに生きるため」に必要なんだと思うのです。
当事者がいくら
「日常生活ではHIVは感染しない」「だから安全なんだよ」
と言っても、まわりがそれを知らず、あるいは認めなかったらその当事者は「安全である」とはみなされない。社会において「安全」とみなすのは、本人からの訴え(申告)ではなく、まわりの受容(知識)に依拠するんじゃないかと思います。
っていうの、いずれも一緒のことだよなぁ…。

差別の諸相

まぁ「諸相」なんていう難しいことじゃないんですけど。
今日は、人権教育関係の会議の日です。で、情報交換とか研修とかの意味で、ちょいちょい視聴覚教材を見たりするのですが、今回は「ルーツを見つめる 〜大阪・若者たちの肖像写真〜」というNHKの番組を見ました。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090806130030174/
これ、何回かブログでも書いた「対岸の肖像」に出た若者たちの中の3人を追いかけたドキュメントです。
なんでこの番組を見ることになったかというと、
「今の若い部落の人たちは、どんなことを考えているのだろう」
という疑問を出した人がいたからです。
で、見終わって…。
やっぱり涙が出るなぁ。

かつて部落差別を語る時は「貧困」とか「劣悪な環境」とか、あるいは「就職差別」「結婚差別」というような形で話をしてきたんですけど、そういうものは、明らかに「マシ」になってきています。じゃぁ「部落差別はなくなった」のか。それは違うと思っています。
その答えのうちのひとつが、この番組にあると、わたしは思っています。
ここに登場する若者たちは、例えば「自分が自分であるためにルーツと出会い直す」わけです。あるいは、「自分のことを語るか語らないかという葛藤の中で生きる」わけです。そういう若者たちの姿の中に、わたしは現在の部落差別を感じます。
ところで、こういう話にたいして「わかりにくい」という反応が返ってくることがあります。でも、わたしはそうは思わない。
ようやく部落差別が「貧困」とか「環境」とかいう表層的な問題の奥にあるところに触れるところまで来たんだと思っています。そして、そこまできたからこそ、他の被差別者とつながれるところまで来たんじゃないかとも思っています。
自分のことを語るか語らないかという葛藤を持つのは、別に部落の人間だけじゃない。「ルーツと出会い直すところから今を生きなおす」のも、別に部落の人間だけじゃない。
そういう意味では、「個別の問題」「特殊な問題」から「普遍的な問題」へと、ようやく変化してきたんだろうなぁと思います。そして、普遍的だからこそ共感も呼べる。そんなことを感じながら、ビデオを見ていたんですがね…。

なんかまとまらないorz

で、宴会

途中、一軒家庭訪問をすませて、夜は宴会。3年生担任団に「おつかれさま!」というヤツです。
かつてわたしが2年の担任をしていた頃、同じ担任団の同僚と一緒に「3年生担任をねぎらう会をしよう」「これを伝統にしていこう」なんて言っていたのですが、結局あの頃は「3年のためにやったけど、3年になったらやってもらえなかった」という、まぁこれまたありがちな話でした。
それに比べると、今はほんとうに継続してやっているので、いいなぁと。
でも、たぶん「ねぎらわれる側」になることは、あってもずいぶんと先なんだろうなぁ。そのころにはこんな会はあるかなぁ。
てなことを考えながら、淡々と呑んでいましたよ。

で、卒業式

わたしは諸事情から毎年学年1クラスしか担当しません。なので、直接教えた生徒は、学年でせいぜいが80人しかいないということになります。しかも、3年生は教えないので、卒業生については、教室でのバタバタは1年のブランクということになります。
なんでこんなことを書くかというと、やっぱり卒業する生徒達への密着度というかなんというか、そういうのが希薄なんですよね。
そんなわたしなんですが、それでも何人か気にしてくれる生徒がいるのはうれしいものです。
でもまぁ、いつまでも「過去」に生きるんじゃなくて、さっさと「過去」なんて忘れて、「次のステップ」の人生を展開してくれたらいいと思いますよ。