「ありのまま生きる」ための?再び

なにが悲しゅうて起床が5時半かなぁと思いながら、なんしかごそごそ起き出して、7月16日のコメント欄をチェック。
うわっえらいぎょうさんコメントがついてる。
ってことで…。

診断書については、もちろんあった方が楽ということはわかっています。ただ、「診断書があるからやってもいい」とか「診断書がないとできない」ということに、わたしはやっぱり違和感を抱いてしまうんですね。もっと言うならば、「不可能を可能にする魔法の紙」ではないということです。
自分のまわりにたいして自分の力・言葉・行動で働きかけ、まわりに十分に理解者を得*1、それでも例えば権力による介入があった時に、その権力にたいして「ほれ」とか見せるなら、それは「使いかただよなぁ」と思います。でも、まわりに理解者がまだまだ少ない状況で、「診断書があるから」とやってしまうと、それは単なるごり押しになってしまうんじゃないかと思うのです。

あと、mizukiさんが書かれている

「わたしが職場でも『*トランス』したいのは,あなたが,職場でもTシャツを着たいのとはちがうんだ!」と言うのですが

について…。
言いたいことはわかるけど、
「それを言っちゃぁお終めぇよ」
という気がするのですが…。
かつて同和行政の正当性を主張するために
「部落の貧困と部落外の貧困には差がある。なぜなら貧困を脱却しても部落には差別が残る」
と言った部落のおばちゃんにたいして
「差別の有無についてはもちろんあるんだけど、それはそれで別に考えるべき。
貧困である状況に差はない。そこに差をつけてきたことに問題がある」
と言った前川さんの言葉を思い出すのです。
「自分には特殊性があるから許されるべき」
というのは、運動としてそういう論法を利用するのは時として有効かもしれないとは思うけど、「あくまでも論法」ということに自覚的である必要があると思います。そうしないと、「資格の絶対性」が生まれ、対話を途切れさせてしまうと思うのですが…。

あとわたしが「いつでもどこでもありのまま」と書いているのは、女装をするか男装をするかというところに力点を置いているわけではないんです。女装をしたければすればいいし、男装をしたければすればいいんだけど、それはそれで、その場にふさわしい恰好があるだろうということなんです。
例えば、ものすごく極端な話、父親の葬式の時、わたしはレディスの服を着ていて小さい頃からの知りあいはひっくり返っていましたが(笑)、「これがありのままのわたし」と言って全身ユニクロを着たりはしないわけで、やっぱり黒のパンツスーツを着るわけです。てか、スーツはそれ一枚しか持ってないんですけどね(笑)。
つまり、特定の服装やメイクや髪型やアクセサリに固着して「これがありのままのわたし、わたしらしいわたし」では通らないのではないかということなんです。で、そこにさらに「特殊性=資格の絶対化」と「診断書=権力」を持ち込むとするなら、そこに理解と共感はまず生まれないだろうと。それどころか、反発すら招きかねない。しかもそれが資格と権力によって押さえ込まれるとするなら…。
少なくともわたしはそういう方法はとりたくないですねぇ。

にしても、電車の中って時間がありますね(笑)。ついいっぱい書いてしまいます。

*1:全員ということではないです。逆に少数であってもほんとうに理解してくれる人がいるというのもありかなぁ

「ありのまま生きる」ための?再び” に2件のコメントがあります

  1. TPOは大事ですよね。
    その辺のことを遵守してこそ、「ジェンダーに関しては目をつぶってね」と周りに要求できるわけで。
    わたしも固い格好は苦手でしたけど、職場でのコンセンサスを得るためにパンツスーツ着るようになりましたよ(^_^;

  2. TPOを崩すのは別にそれはそれでいいんです。ただ、それなりの覚悟が必要なわけだと思います。その覚悟なしに「ありのまま」とかいうのはちょっと違うのではないか、と。

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