「差別」の対になる言葉

最近、この人*1と、ポツリポツリとメールのやりとりがあります。
なんか、昔の自分が何を言ったかとか、ちょっと恥ずかしかったり、たまには「え〜、そんなこと言ったのかぁ」と過去の自分をひたすら反省したりするわけですが…。でも、かつての自分を振り返る上でも、現在の自分との「違い」を知る上でも、とてもいいやりとりだなぁと感謝しています。

かつて「この人」さん、「学校学ばなければ差別はなくなる。へたに学ぶからまた差別がうまれる」という作文を書いたそうな。それに対して、担任が「こう考えるのはアカン!」と授業で言ったそうな。で、「この人」さん、わたしのところに来て文句を言ったそうな。
そうやなぁ…。たしかに、かつてわたしも「これの作文が差別や!」みたいなこと言って、生徒の反発くらったことありましたよ。まぁその時はそれが正しいと思っていたんだけどね。でも、考える機会を奪っていたんだなぁ。
「この人」さん、わたしの小さなヒントをずっと考え続けて、今でも考え続けてくれているみたい。すごくうれしい。こういう人とのやりとりの中から、わたしも考え続ける機会をもらえます。

最近のやりとりの中で、「打ち明ける」ということ、「打ち明けられる」ということについて考える機会をもらいました。
たしかに「当事者」とされる人は「打ち明ける」側であり、「非当事者」とされる人は「打ち明けられる」側なんですね。そういう意味では、「能動」と「受動」がはっきりしています。で、「打ち明ける」側には、やはり「語り方」を模索しなくちゃならないし、「打ち明けられる」側には「引き受け方」を模索する必要があります。
ただ、ありとあらゆる局面において「当事者」であり続けることは、きっと不可能です。ある局面においては「当事者」であるかもしれないけど、別の局面においては「非当事者」になる。あるいは「被差別者」と「差別者」と言いかえてもいいかもしれません。そうなると、ある一人の人が、時としては「語り方」の模索を必要とし、時としては「引き受け方」の模索を必要とする。結局それは、「つながり方」を模索することに他ならないのかな、と。
でも、差別・被差別の関係に絡め取られてしまって、「語るだけ」「引き受けるだけ」に終始してしまって、「つながること」を放棄してしまうことがよくあるんじゃないだろうか。

まぁ、使い古された言葉ですけどね。

*1:以下、「この人」さん