排除の言葉

やっぱり気になります。
この間、新型インフルエンザにかかわってさまざまなニュースが飛び交っています。その中にちりばめられる「国民のみなさん」という言葉。
「国民」という言葉が、同時に「外国人」を排除する言葉であるという意識が、今ほんとうに希薄なんだなぁと思います。そして、そのことに強い危機感を持っています。
ちなみに、パートナーから「どう言えばいいと思うの?」って聞かれたんで「「みなさん」だけでええやん」と答えたのですが…。

メーデーかぁ

うちのポータブルCDMDカセット、毎日スイッチを入れると「今日は◯◯の日」って出てきます。もちろん、今日は「メーデー*1
にしても、いま日本国内で5月1日にメーデーの集会をしているところって、どこにあるんだろう。というか、「万国の労働者、団結せよ」という言葉が空虚になるほどに分断されてしまっていますね。いや、分断「され」というよりも、労働者自らが分断「し」ているのか。
「結集軸」なんていう言葉も、すでにないですからねぇ。

でも、それはもしかしたらしかたがないことかもしれない。
というか、かつてとは違う形で、さまざまなコミュニティをつくろうという動きは確実にあります。それらは、今はさまざまに異なる「要求」の中で集まっていますから、相互のつながりは希薄です。
かつてならば、それらを「一本化」というかたちで結集させていたんだしょうね。でも、いまはありえない。とするならばどうするか。
たぶん「思いを重ねる」ところからスタートするんじゃないかなぁ。もうちょっと下手な言い方をするならば「お互いさま」の精神?
「あの時助けてもらったし、今度は助けるわ」
というのはもちろん、
「ごめん、どうしても今日あかんねん」
もまたありという、ゆるやかな「お互いさま」。無理をしない「お互いさま」。でも、そういう相互乗り入れが拡がっていけば、あるいは今までとは違うなにかがうまれるかもしれない。

などと思いながら、淡々と日常の授業をしているんですけどね(笑)。

*1:ちなみに、4月4日は「トランスジェンダーの日」ではなかったなぁ…