『トラ宣』より引用

●TG自助グループの約束事
1、性器形成術や性ホルモンをはじめとする身体の変更について。
 どうしてもそれが必要な人たちがいる。また一方で、身体的性別違和があっても、手術や性ホルモン使用を我慢できる人もいる。しかしだからといって、そういう人がTSでないとか、性同一性障害や身体的性別違和がないとか軽いとは限らない。
 また逆に、手術しなければ生産的な人生を始められない人たちがいる、という事実を否定してはならない。そういう人たちは我慢や工夫が足りない、という考えは間違っているし、事実にも反している。

2、フルタイムとパートタイムの生活について。
 私たちのなかには、”フルタイム”と呼ばれる、自分の望む性別でずっと生活している人たちもいる。また一方で男性モードと女性モードを行き来する、”パートタイム”という人たちもいる。
 フルタイムになりたいのにさまざまな事情でそうできない人たちや、女性としての自分も男性としての自分も捨てることができない人たちもいる。しかしフルタイムの人たちが、それによってたとえ仕事や収入、家族や社会との関係を犠牲にしているからといって、我慢が足りないとか甘えている、ということにはならない。
 また逆に、パートタイムの人たちが、そういう生活をなんとか受け入れられていたり、あるいは安住していたり、時にはそれを楽しんでいるからといって、性同一性障害や社会的性別違和がないとか軽いとかいうことは限らずしもいえない。

3、パスとノンパスについて。
 ”パス”とは自分の望む性別で人から見られることである。私たちの多くはそれを望んでいる。でも、身体上のさまざまな制約から、そうは見られないで”ノンパス”(リード)となっている場合も少なくない。またそもそもパスを望んでいなかったり、優先順位がかなり低い”クイア派”という人たちもいる。
 ノンパスやクイア派の人たちが、自分の望む性別のスタイルで外出したり、フルタイムになったり、時にはマスコミに出たりすることさえある。また逆に、「自分はパスできないから」という理由で、そういったことをしない人たちもいる。しかしそれは、その人その人の価値観や置かれている状況によって、それぞれが判断すべきことであって、他者に自分の判断を押しつけてはならない。

4、プロセス派とノンプロセス派。
 性同一性障害や性別違和を抱えている当事者のなかには、”普通の女性”や”普通の男性”に同化し、溶けこんでしまいたいと考え、”トランス”ということが、そうなるまでのプロセスに過ぎない人たちがいる。また逆に、”男でも女でもない状態”が、むしろその人本来の状態に近くて、それで安定した気持ちで生活を送れるという人たちもいる。それはどちらが正しいとか間違っているとか、優位であるとか、私たちの課題の中心であるとか周辺であるとかいう問題ではない。

5、不幸くらべはやめよう。
 ”トランス−性別を越えること”は、現代の日本ではとても困難で大変なことである。どういう選択をしても、それがイバラの道であることに代わりはない。誰もが苦しみ、困難に直面している。ただ、その内容が大きく違っているだけだ。
 自分(たち)だけが特別苦しんできたとか、自分以外の誰かがよりお気楽に見えたとしても、それは必ずしもそうとは限らない。”不幸くらべ”や”不幸自慢”は、生産的なものを何も生み出さない。そうすることによって自分自身も傷つき、まわりの人も傷つき、そのあげく、ただ人間関係を損なう結果にしかならない。

6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。
 性同一性障害や性別違和を抱えているからといって、みんな同じではない。優先順位がみんな違う。身体の変更が優先する人もいれば、フルタイムの生活が優先する人もいる。それが衣服であるという人もいる。パートナーとの関係が優先する人もいれば、仕事や家庭が最優先という人もいる。それはNon−GID性同一性障害のない人)の人たちを見れば当然のことであり、よくわかるはずだ。
 トランスという大事業に必要なのは、それぞれの人にとって、何が最優先のことなのか、自分が何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか、それをはっきりさせること。そして、自分を基準にして、ほかのメンバーに特定の選択や価値観を押しつけないことである。
 何を選択するべきか、人によってみんな違う。自分の状態や価値観からなされた判断を他者に押しつけることは、この自助グループを崩壊に追いやるだろう。

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 わたしにこの「約束事」を教えてくださったのは、あるトランスセクシュアルの人です。特に、「6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか」という言葉が突き刺さりました。当時そのことをぜんぜん決められなかったし、それをやってきたその人と自分を比較した時、「自分はあかんなぁ」と思ってしまったんですね。それは、いまでもさほど変わることがありません。なにが違うかというと、まぁ自分にも捨ててきたものがあるなぁと気づいたことがある、と、その程度です。
 この約束事、先日ある掲示板に引用されて「好きだ」という人が結構いたんですけど、わたしはいまだにこの約束事を読むと、厳しい刃を向けられたような、苦しい気持ちになります。

出前授業

 よその府県ではどうか知りませんが、京都の場合、ずいぶんと薄くなったものの、まだ高校に「地域」というものが残っています。「地域」って、小学校や中学校の場合「大切」って言われますが、実は高校でもとっても大切なんじゃないかなぁと思います。
 ということで、ウチの校区のある中学校とはずいぶんと長い間中・高連携をしていまして、その一環として高校教員が中学校3年生を教えに行くという「出前授業」があります。ウチの学校では、毎年いろいろな人が行くようにしているのですが、今年はわたしにまわってきたので、久しぶりに行くことにしました。
 なににしようかなぁと、昨日の晩考えていたのですが、「ポン」と思いついたのが、手品です。これ、けっこうはまります。例えば…

手品1

 3つのさいころを振ります。出た目を3つ足します。そのうちの一個を裏返して、その目も足します。さらに、裏返したさいころを振って出た目を足します。これが最終結果。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残った3つのさいころから、最終結果がわかります。

手品2

 新しい紙マッチを用意します。まず、一桁の数を思い浮かべて、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチの本数を数えて、1の位と10の位を足して、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチから、好きな分だけマッチをちぎって握ってもらいます。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残ったマッチから握ってもらっているマッチの本数がわかります。

手品3

 ひもで手錠のようなものをつくって自分の手にかけます。それと交差するように、もう一人も手錠のようなひもを手にかけます。上に布をかぶせてしばらくごそごそやると、縄抜け完了。

 これらは、すべて数学的(算数的)に説明できるんですよね。
 生徒たちは、「数学なんてなんの役に立つの?」とよく聞きますが、なんの役にも立ちません。でも、見ている人に楽しんでもらえたら、それでもいいんじゃないかなぁ…。